不正義の世界で大丈夫と叫んだこども ~【天気の子】が本当に変えたたった1つのこと~
*この記事には【天気の子】【君の名は】【ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破】のネタバレが含まれます
2019年7月25日。
映画館で大の大人が泣きながら打ちのめされていた。
【天気の子】を観終わったのだ。
天気の子は決して完全な作品ではない。
少なくとも前作の【君の名は】と比較するなら、明確に低質な作品であることは否めなかった。
安藤雅司氏を欠いた作画は安定感を失い、世代を選ばず通ずる内容に3.11のやり直しという文脈まで含んで高齢層にまでリーチしていた脚本は遥かに稚拙な内容に落ち込み、数々のプロダクトプレイスメント(劇中広告)が物語への集中を妨げる。
音楽以外前作に及ぶところがない。人物に感情移入できない。バーニラバニラでもう心が折れた。そういった否定的感想のどれもまったくその通りと言わざるを得なかった。自分もバーニラバニラ聞いた時どうしようかと思った。
けれど、自分にとって天気の子は明らかに君の名はより特別作品だった。
「この作品がヒットしたことで日本のエンタテインメントの歴史の針が5年早った」とまで思った。
どうしてそれほどまでに心を貫かれたのか。
それは本作が『子どもに対して不正義を肯定した作品』だったからだ。
正義を肯定する、と聞いても大抵の人はピンと来ないだろう。
不正義とはなにか。
それを知るためにまず、物語という生きるために不必要な物がなぜ有史以来社会で必要性を認められてきたのかから説明したい。
【教訓】という物語を拘束する社会的価値
物語は
それは物語に多く触れる機会のある者なら誰もが知る当たり前の事実だ。
非現実的な描写、非論理的な展開は物語が有する現実性を削ぎ、それを見る者の作品世界の存在を信ずる気持ちを失わせる。
それゆえ現実性は一般的に物語を成立させるもっとも重要な要素だと思われている。
けれど、実は物語を縛っている最大の要素は現実性ではない。
本当に根っこの部分で物語の支配者として君臨する概念。
それが教訓だ。
『物語は教訓を含むことから決して抜け出せない』
それこそが物語の存在価値だからだ。
子供が怪物に襲われる童話は同年代の子らに現実の危険をわが身で感じさせるための訓話であり、宗教で禁じられた行いは実際にそれらの行動が社会を乱す要因となりえた実績から選ばれる。
大抵の神話や民話には、社会の改善に寄与する教訓が含まれているのだ。
そしてそれは近代文学においても変わらない。
夢は必ず叶い、善は必ず勝ち、悪を成した者はその報いを受ける。
全ては現実のための教訓であり、これらの正しさ――【正義】が執り行われなかった物語に対し、人は何らかの不満や違和感を覚え、物語の稚拙さとして認識される。
もちろんなかには信じても救われない。夢は叶わない。善は滅びすべて失われる。そういう悪しき物語もあまた存在する。
だがそれらも全ては『そうなってはいけない』という逆説的な正義の正しさを示す教訓である事からは逃れられない。
悪はただ、悪として書かれた時点で勝とうが負けようが善の正しさを証明するための装置としての役割を全うする運命にあるのだ。
そしてそれでもなかにはその構造まで把握して教訓の輪から脱した物語も多くはないが存在する。
だがそれは邪道であり、正しき正義を成さない【不正義】の物語である。
不正義の物語は正しさを乱す。そして正しさを乱すものは通常、社会に受け入れられない。
それゆえに不正義の物語は商業的な成功を期待できない。
小さなコミュニティに向け、小さな規模で送り出されるのが常だ。
教訓を肯定する正しき物語。
正しさが失われた結果を示す悪しき物語。
教訓に与しない不正義の物語。
これらを踏まえて解釈しよう。
天気の子で描かれる物語はどれにあたるのか。
当然、不正義である。
主人公である穂高は大した理由なく家出した社会にとって間違った存在として始まり、銃の発砲を筆頭に多くの社会的に間違った行動を取り、世界に大きな影響を与える自覚を持ちながら間違った選択を選び、結果社会は崩壊するが穂高自身はその責を問われることなく肯定的な結末を迎える。
そこに社会のための教訓はなく、逆に正義に反した子供たちが社会を消費するだけして終わる非常に稚拙な物語が描かれている。
累計興行収入約142億。公開年度興行収入第1位。歴代興行収入12位(2019年当時)という(前作から100億落としたとはいえ)高い商業的成功を収めた作品である天気の子は、その商業的価値に求められる立場とは真逆の、一切の正義が行われない不正義の作品なのだ。